上賀茂神社の競馬会神事(賀茂競馬)

競馬会神事は、上賀茂神社で行われる葵祭の前儀で、通称・賀茂競馬と呼ばれています。(葵祭については後述)


上賀茂神社の一ノ鳥居から二ノ鳥居までの間に設けられた約200メートルの直線の左右に※埒(らち)を設け、2頭の馬を6回走らせて速さを競い合います。京都市登録無形民俗文化財。


※埒とは、馬場を区切る柵のこと。埒が明かないの語源。競馬会神事で柵が外されるのを待ちわびた一般客が言った言葉からという説がありますが、諸説あります。


先にスタートした馬と後にスタートした馬との差が開けば先の勝ち、縮まれば後の勝ちとなり、合計6本の勝負が行われた上で左方が勝てば、その年は豊作になるといわれています。


「馬出しの桜」からスタートし、「鞭打ちの桜」の前で鞭を打ち、「勝負の楓」で勝ち負けが決まります。


競馬会神事に先立ち5月1日には競馬足汰式が行われます。


競馬会神事(賀茂競馬)の見所!

乗尻(のりじり)

左方は赤色の打毬楽(だぎゅうらく)、右方は黒色の狛桙(こまぼこ)の舞楽の装束が用いられます。


埒の中を見回る警護衆

菖蒲の葉を付けた地元の小学生が務めています。


矛(ほこ)

矛が建てられている時は神様がいらっしゃるという意味。前半が終わったところで矛が倒され、神様がお帰りになります。


九折南下(きゅうせつなんか)

性質がわからない野生馬をはじめて競馬に用いる際の賀茂悪馬流(かもあくばりゅう)という作法で、乗尻が馬の性質を掴む、また、馬が馬場に慣れるために行います。馬が蛇行しながら南下し、中央の辺りまで約七回半位じっくりと往復させます。


第1レース

第1レースは左方の荘園二十箇所第一「倭文庄(しどりのしょう)」の勝ちとあらかじめ決まっています。左方の乗尻は、右手に持った刀を前方から後方へと移動させながら先に埒内を走り抜け、右方を挑発するポーズを見せます。


後見(こうけん)

勝負は高台の左方後見によって判定され、左方念人(ねんじん)に報告します。それを受けて左方の扶持(ふち)は勝負の結果の扇(左は赤、右は青、持の際には両方)を掲げます。勝った乗尻には白絹が与えられ、乗尻は頓宮に勝利を報告します。


競馬会神事(賀茂競馬)の歴史

競馬会式は古くは「きそいうま」や「こまくらべ」といわれ、5月5日の端午の節会(節句)に天下泰平、五穀豊穣の祈願をするために宮中武徳殿で行われていました。


その競馬会式を平安時代の1093年(寛治7年)、第73代堀河天皇の頃に上賀茂神社に移しました。


1401年(応永8年)、室町幕府三代将軍足利義満が観覧して以来、十三代将軍足利義輝、十五代将軍足利義昭等も観覧、1574年(天正2年)には、織田信長が20頭の馬を出して観覧しました。


葵祭

1400年以上の歴史を持つ賀茂社(下鴨神社・上賀茂神社の総称)の例祭で、日本最古の祭です。平安時代において、たんに「祭」と言えば葵祭を指します。また、江戸時代までは「賀茂祭」と呼ばれていました。京都三大祭、三大勅祭の1つ。

宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀の3つの儀式からなります。特に5月15日の路頭の儀が知られ、平安朝の優雅な装飾に身を包んだ総勢500名以上で行列を作り、御所から下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向かいます。


葵祭の歴史

第29代欽明天皇(きんめいてんのう)の時、風雨激しく五穀が凶作だった事が賀茂神の祟りと考えられ、その祟りを鎮める為、天皇の勅使「卜部伊吉若日子」によって、4月の中酉の日に祭礼が執り行われました。その際、馬に鈴をかけ、人に猪頭を被せて駆競(かけくらべ)をして祈願すると風雨治まり五穀が実ったといわれています。

1502年(文亀2年)から約200年もの間、途絶えましたが、江戸時代の1694年(元禄7年)に祭が再興。その時、別雷神の正夢に母神が現れ、「我を祀るに葵を鬘(かずら)にせよ」と告げた事にちなんで、御所車や勅使、牛馬にいたるまで「葵」を飾りました。それ以降、「葵祭」と呼ばれるようになりました。

1872年(明治3年)に再び途絶えますが同年に岩倉具視の尽力で復活。また、第二次大戦中は中止となりましたが1946年(昭和21年)に復興。


上賀茂神社への行き方

所在地:〒603-8047 京都府京都市北区上賀茂本山339
電話:075-781-0011


電車

地下鉄 北大路駅 徒歩20分

地下鉄 北山駅 徒歩15分